博士論文『清末における省財政の形成と財政制度改革』概要


目次

序章 研究史の整理と本論文の課題
 第一節 問題の所在と清末財政に関する研究史
 第二節 本論文の論点と概要

第一章 清末における田賦徴収制度と監査制度
 第一節 清末における戸部の財政掌握力
 第二節 清末奏銷制度の変遷
 第三節 清末の官欠・民欠からみた銭糧政策
 第四節 清代財政監査制度の研究 ―交代制度を中心として―

第二章 「外銷」の出現と財政制度の変化
 第一節 清末の新財政に対する奏銷について
 第二節 清末湖南省の省財政形成と新財政機関の人事

第三章 財政権統一と財政機関の再編成
 第一節 中央と地方における財政機関の改編
 第二節 光緒新政以後における中央・地方間の財政調整
 ―清理財政局と予算編成を中心に―
 第三節 預備立憲期の「国地劃分」と督撫の権限

第四章 「国地劃分」と諮議局の予算審議
 第一節 諮議局の設立をめぐる議論と財政
 第二節 諮議局第二回常会以降の予算審議をめぐる官紳対立

終章

概要

 本論文は、中国の国家的凝集性を支える財政制度の変遷をとらえるという立場から、清末の咸豊・同治年間から光緒・宣統年間の預備立憲時期の財政制度の変容を対象に考察を行った。中央と地方の財政利害をどのように調整して、統一を維持するのかという課題は、中華民国期を通じて現在の中国においても重要な課題であるが、「国地劃分」という言葉で表される、中央と地方の財政権の調整がはじめて自覚的に追求されるのは、本論文で取り扱った清末においてである。清末においては、財政をめぐる省レベルでの集権化が進み、従来の北京を中心とした一元的な財政管理がうまく機能しなくなるという事態が進行した。そこで従来の研究では太平天国の乱が発生した咸豊・同治年間以後、各省の長官たる督撫の権限が強化されると同時に、各省の財政的独立の傾向も強まったと指摘されてきたが、清朝が約半世紀の間、統一政権を維持し続けた理由をうまく説明できなかった。つまり中央と督撫を二項対立的にとらえるだけでは、各省から中央への送金の増加に下支えされるような、清朝を存続させた要因を説明できなかったのである。本論では、中央―督撫―各省の紳士層という三層構造的視点をとり、三者間の対立と協調の関係を考察し、それがどのように保たれ、なぜ20世紀初頭の数年間において急速に崩れ、清朝が滅亡したかを財政面から探ることを第一の目的としている。また、清末から中華民国初期にかけての歴史については、従来の断絶面の一方的強調に対して、近年では連続する面の存在が注目されるようになっているが、立憲政治の導入は、中華民国時期の袁世凱政権においても継続して追求されたし、そのための官制改革、国会や省議会の開設、地方自治の導入などは既に清末において提起され、着手されていた問題であった。財政改革もそのような一連の改革の動きと深く結びついており、預備立憲時期の財政改革の考察は欠くことができないため、本論の第二の目的としては、当該時期の財政改革について詳細な分析を行うことを目指した。

 第一章においては、咸豊・同治時期以前からある税収項目を中心に、中央からの財政掌握手段について考察した。第一節と第二節では、主に奏銷制度とそれに付随する財政報告の制度と、中央が実際にどの程度、各省の財政収支を把握できていたのかを検討した。太平天国の影響から、咸豊・同治年間以後は、従来の財政報告制度は崩壊したという先行研究もあったが、旧来の財政報告制度は、厳然と存続し、宣統年間まで継続したことも明らかになった。また、旧来の税収の報告のみならず、新しい税収についても、簡素といえども報告制度が確立され、一定額の送金が各省に対して課せられていたことも明らかにすることができた。第三節においては、清末の官欠・民欠と呼ばれる、地丁収入の滞納に対する追徴の様子を分析した。同治年間から光緒初期にかけては、積極的な滞納分の追徴と免除という対策が講じられるが、光緒中期以後は、それらの対策が全く講じられなくなる。これは漕糧収入の減少により、官欠・民欠も減少したものと考えられ、流通税を中心とした新税の増加と連動して起こる現象と位置づけることができる。第四節においては、各省における財政監査制度を考察し、中央からの監査能力は、清初からあまり高くなかったことを示し、一方で清末には各省の省城を中心として、財政収支当局と財政監査当局の分離を前提とした合理的な財政監査制度がうち立てられていったことを確認した。第一節・第二節で導いた結論は、中央からの旧来の地丁等の収入掌握力の厳然とした強さであり、第三節・第四節では、省財政が省集権的に督撫の手に集約されていくという過程を導き出したが、次の第二章では更に、督撫は省の財政基盤を強化し、清朝存続を下支えする方向性を持っていたという分析を試みた。

 第二章では、外銷とよばれた釐金などの新税を基盤とする、新しい財政部分について検討した。従来の研究では、戸部は各省に対して、外銷を正規の報告ルートで奏銷させることを企図したものの、督撫の反対で挫折したと思われてきたが、光緒年間の史料などには、督撫の側から外銷の奏銷を申し出るものも確認され、実際に簡単な報告ではあるが外銷の収入報告も実施され、固定的で且つ額としても大きな京餉・協餉が実現していたことを説明できていなかった。そこで第一節では、戸部が外銷部分から不正規な送金を各省に要求するという状況下で、督撫の張之洞からそれに対して、戸部や中央官員の給与が少ないのなら正規の手当を増額し、外銷を基盤とする各省からの資金の流れも増やすかわりに、開示して奏銷しようと主張する建議を分析した。各省から中央に対しての資金の流れには、正規なものと不正規なものがあり、奏銷が為されない後者は戸部の恣意によって搾取されるため、張之洞は不正規に扱ってきたものも奏銷して正規の流れに加えようというのである。この主張は、必ずしも督撫全体の意見とはならず、不正規な部分は残ったのであるが、中央と地方の官員が支え合う場合に、正規に処理して調整を行おうという督撫もいたことを明らかにできた。不正規な資金の流れを維持しようとする傾向は、戸部の側にもあり、不正規な資金流動で戸部や中央官員を支えようとする督撫もいれば、それに反対して奏銷を申し出るものもいるわけで、督撫が常に中央からの遠心力に沿って邁進していたわけではなく、どちらにしろ、何らかの形で中央の官員の需要をかなえようとしていた点では変わりなく、むしろ両者ともに、相互依存的な関係にあったのである。それでは、清朝は光緒年間になって求心力が回復したかといえば、問題はさほど単純ではなく、督撫とは別個の在地の紳士層といった勢力の位置づけを正確に行わなければならない。彼らは各省からの遠心力として作用しうる存在であり、それは皮肉にも督撫が清朝存続のために強化した省財政基盤の中から発生し、事実上の地方財政である省財政を支える主体として、第三の勢力として出現した。彼等が新財政機関を支える要因として、財務行政に参画してきた状況を分析したのが、第二節である。第二節では、特に湖南省に焦点を当て、省財政における新財政の重要性がどの程度増加してきたのかを探り、新財政機関の運営に、どの程度の紳士層が参画してきたのかを考察した。さらに、在地の紳士層が、どのような推薦の経路によって、新財政機関の中に入っていったのかを調べ、省内における官紳関係についても論じた。紳士層は、確かに新財政機関の中に入り、無視できない勢力になっていたが、各機関の中枢的ポストに、流官的性格を持った道員が配置され、人事の主導権も督撫の方に握られていたことを明らかにした。

 太平天国の乱は、清朝の財政制度を大きく変える転機になったが、さらにその約半世紀後に開始された預備立憲改革は、次なる大きな転機をもたらすものであった。第三章は、立憲改革期に目指された中央集権と財政権統一の議論からはじめ、中央と地方の財政機関の再編成とそれに関連する諸改革を論じ、特に中央と督撫の関係に焦点をあてた。第一節においては、財政機関の整理・統一について考察した。中央における財政機関の再編成計画は、必ずしも全て実行に移されたわけではないが、後の民国期の制度確立につながる制度改編の動きが見られた。地方においては、雑多な局所を廃止して、布政使(度支使)に省の財政を集中させるべく機関の再編が行われ、ある程度成功を見たことが明らかになった。第二節においては、各省に設けられた清理財政局の活動について詳しく分析した。清理財政局設立の目的は、予算作成の前提となる税収・支出項目の調査にあり、それは外銷と称されていた部分にまで及び、それに対する説明書を作成し、一応それら全てを正規の財政としてまとめ、中央からの財政掌握に貢献し、予算作成のための初期段階の足がかりをつくることに成功した。しかし、清理財政局も度支部側も、財政の国地劃分を積極的に進めることが出来なかったために、後に予算審査の過程で混乱を起こす原因を作ることにもなってしまった。

 第四章では、督撫と諮議局の関係に焦点を当てて、各省での財政権の問題を考察した。咸豊・同治年間以降、督撫が在地紳士層の行政への事実上の参画を促したことにより、各省の政治情勢は変動しつつあったが、紳士層が参画していた機関の人事権は督撫が握っていたことにより、イニシアティブは督撫の側にあった。ところが、立憲改革時期からは、予備的な地方議会ともいえる諮議局が設けられ、紳士層に正式に政治参加の権限が認められ、限定付きとはいえ、立法権が与えられると、官紳の立場は対等となり、省内での政治情勢はさらに変化を遂げることとなった。第一節では、諮議局の設立から宣統元年までに区切り、その財政に対する影響力について検討した。宣統元年の諮議局第一回常会では、まだ予算案自体が作成されていなかったので、その財政に対する影響力は、限定的なものであった。第二節では、諮議局第二回常会以降の予算審議と官紳関係について扱った。督撫は、国地劃分がはっきり定まっていないことから、諮議局の権限を狭く解釈し、その干渉を極力抑えようとしたことから、両者の対立は、諮議局の議事停止という深刻な事態をしばしば引き起こした。そもそも清朝は国家行政機関と地方行政機関が未分化であり、督撫は各省において、国家業務と地方業務の両方を請け負っており、中央官としての側面も持っていた。諮議局の権限をおさえて、京餉・協餉を優先させていく督撫は、諮議局の紳士たちから見れば、省の利害の代表者ではなく、中央行政の代行者でしかなく、両者の対立は深刻化し、清朝崩壊の一因となったという結論に達した。


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