入門時から北京大学合気道協会成立時期までの回顧


学部生の頃

 私が合気道を始めたのは、大学4年に上がる直前の春休みのことだったと思う。大学に入学する頃には、何らかの武道をやってみたいと思っていたのだが、音楽をやりたいという気持ちもあり、大学ではマンドリンクラブに入り、不真面目ながらも3年生になるまで活動を続け、武道の方には全く手を出す余裕がなかった。
 大学3年の終わり頃になって、いよいよ中国史研究の道に進もうと決心したのだが、その時になって、再び武道をやってみたいという心が目覚めた。その時には、特にどんな研究をやろうということが固まっていたわけではないが、これから開放されていく中国の農村を巡って調査するのが面白そうだと考えていた。そういったとき、護身術の一つも身につけておいた方が心強い、というのが合気道を始める動機の一つになっていたのは確かだ。
 後に4年も北京に留学したにも関わらず、農村なんて所には全く足を踏み入れず、ひたすら北京市内の档案館に通い続ける事になろうなどということは、当時は全く思ってもみなかったのだが…。
 さて、いよいよ大学も最後の学年というとき、大学院受験のこともあり、いつの間にかマンドリンクラブからは足が遠のいてしまっていた。ちょうどそのとき、中学以来の友人であるH君が、護身術なら合気道がいいということで、誘われるままに彼の所属する道場を訪れた。
 最初の稽古のときのことは、あまり覚えていない。後両手取りの呼吸投げかなにかをやったことは、うっすら覚えているのと、予想以上に体力を使うので驚いたことくらいしか覚えていない(試合をやるわけではないので、実際にやってみるまでは、本当に軽い運動なのかと思っていた)。

博士課程前期の頃

 大学院に上がってからは、大学の合気道部に混ぜてもらって稽古した。しかし、町道場と比べて、稽古内容は壮絶ともいえるほどハードだった。しかも、当時はまだ白帯だったし、顔も童顔だったせいか、よく高校生と勘違いされた。ただし、大学四年間、全くハードな運動などはやっていなかったので、体力的には高校生のような元気はなく、すぐに息があがっていたのだが。その後、地元の道場と合気道部の方を行ったり来たりしながら、なんとか初段までこぎ着けた。

博士課程後期の頃

 博士課程に上がった頃は、地元の道場にときどき顔を出すくらいで、あまり真面目に稽古はしていなかった。博士課程に上がってすぐに、北京留学の話が持ち上がったので、北京に道場はないかと調べたが、どうもはっきりとした情報は得られなかった。この時は、まだ自分で道場を始めることになるなど、考えてもみなかった。

留学当初

 北京大学への留学は、1999年9月からであるが、北京に着いた当初は、合気道をするなど考えもよらないくらい忙しく、帰国したおりに、地元の道場に顔を出すくらいだった。北京に着いてから道場を探してみたが、やはり見つからなかった。以前有ったという噂もあったが、この時には潰れていたのであろう。私個人としては、北京に3年間滞在の予定であったので、その間全く稽古をやらないというのは、今まで積み重ねてきたものを全て白紙に戻すごとき感があった。ちょっと体を動かすような程度でもいいから、どうしても稽古を継続したいと思っていた。しかし、この年には全くチャンスはおとずれなかった。

2000年 北京での道場旗揚げ

 北大での二学期目も終わりに近づいた5月末に、一つの転機が訪れた。日本人留学生の友人から、近所の部屋に住んでいるトルコの留学生から、合気道をやってみたいと言われたと話があった。彼はそのトルコ人に私のことを紹介してくれ、稽古を始めようという話になった。別にそのトルコ人と二人だけで始めてもよかったのだが、それだけでは心許ないので、もう一人の日本人留学生と、ルームメイトのインドネシア人も誘い、6月から始めることになった。当然専用の道場などない。大学内の、体育館の近所の芝生の上に、絨毯を買ってきて敷き、そこで始めることにした。
 実は、大分大学在学時代、合気道部が屋外であおいビニールシートみたいなものを敷いて稽古していたのを、横目で見て知っていたので、そういう風にすれば、道場のないところでもなんとかはじめられるというイメージはあった。
 稽古時間は朝6時からだった。そんなにやる気の感じられないルームメイトは、2,3回で挫折した。トルコ人は、二三個技をやったら、「覚えた」と言い、「もう十分だから試合をやってみよう」とか言い出す始末。教えるのは極めて困難であった。6月も終わりに近づく頃、こういった留学生を相手に、長期間活動を継続するのは不可能だと感じた。6月いっぱいで第二学期も終わり、夏休みに入ると同時に、合気道の活動も休みに入った。
 9月になって新学期が始まり、さっそく活動を再開した。トルコ人はなんだかんだと理由をつけて来なくなった。日本人留学生を相手に、二人だけの稽古が続いた。本当なら、ここでやめるという選択もあったと思う。ただ、せっかく絨毯まで買ってきて、はりきって始めたのだから、人数は少なくても継続させたかった。実は、私とその日本人留学生の二人で、絨毯の代金を負担したので、簡単にやめたくないという貧乏根性もあったかもしれない。とにかく、別に大きな道場を作る必要はない。自分が稽古できるだけの、数人が集まればいいのだ。細々と続けていれば、そんなに難しいことはないだろう。そう思ってとにかく続けた。しかし、二人だけの状態では、どちらかが風邪でもひいたら、それでたちまち活動中止である。もう数人、新しい仲間を募る必要があると思った。試しに学内の掲示板に1,2箇所、留学生楼の掲示板、日本研究センターの掲示板に少しビラを貼った。9月末頃、一人中国人学生がやってきた。大学一年生で、今月北京大学の哲学系に入ったばかりだという若い青年だ。彼は非常に優秀で、覚えが早かった。こういう中国人を中心に道場を作っていけば、長く良い稽古が継続できると思った。日照時間も短くなり、だんだん準備体操中はお互いの顔が見えないようになってきた。最後に残っていたスターティングメンバーである日本人がくじけかけてきた。10月の国慶節の間は、最後に残っていた日本人学生も、入ってきたばかりの哲学系の学生も旅行やら帰省やらで、稽古は休みにしようと言う。休んでもよかったのだが、休み中に暇を弄んでいるような学生が興味を示してやってくるかもしれない。これはある意味チャンスかもしれないと思い、休み中、もう一回学内にビラを貼ってみた。朝、薄暗い中を、一人で絨毯を担いで芝生に出てみると、誰もいない。しかし、稽古場に出て、誰も来ていないなどということは、実はたいていの道場創設者が、創立当初経験している事だと聞いていた。肝心なことは、人が来ないかもしれないと思っていても、ちゃんと決まった時間に指導者は稽古場に赴かなければならないことだというのは、またそういった人が揃って口にすることである。指導者が稽古場に出ていなかったり、開始時刻に誰もいないのを見たりして引き上げ、後から遅刻してやってくる人から「ああ、もう潰れたんだ」と思われたのでは、道場を続けていくことは出来ない。とりあえず、誰も来ないことは覚悟していたんだから、準備運動だけでもやってかえろうと思って、準備体操を終えたころに、一人中国人学生が現れた。後に北京大学合気道協会初代会長になる曲昌智君である。彼が現れたところで、もう一回最初から準備体操をはじめ、少し稽古をした。前日サッカーで膝を怪我したとのことで、大した稽古は出来なかったが、何とか稽古は中止せずにすんだ。そして、稽古時間が終わる頃に、もう一人胡春華という青年が現れた。彼も翌年アメリカに留学するまで、しばらく活動に参加することになる。当時彼は既に北京大学を卒業していたのだが、卒業生であると参加できないと思ったらしく、しばらくの間は私には在校生であると言っていた。
 10月は、まだ気温の低下が激しくないので、朝稽古も暗くて不便とは言え継続していた。ただ、いずれ冬になれば中止せざるを得ないので、土日の午前中も稽古をすることにした。そのころから、日本人留学生の女性なども参加しはじめた。人数は思いのほか増え、順調にいくかと思われた。ただ、この時、思いもよらない非常に面倒なことが発生した。我々がやっている活動が、政治的に不穏なものであると、学校当局に通報するものがあったらしいのである。当時は某宗教団体の事件が、連日新聞記事をにぎわせており、政府は民衆の集会活動などに敏感になっていた。学校当局も同様に神経をとがらせていたのである。大学のある教官から私の方に連絡があり、時局をわきまえない活動であるとお叱りを受けた。しかし、たかだか学生が数名集まって運動しているくらいで、非常に理不尽なものを感じたが、学校当局が問題にするというのなら、やめても良いと思った。しかし、ふと考え直すと、やめるのも非常に自分の立場を悪くするのではないかと思い当たった。もし悪意のある者が、私の活動が政治的に問題があるとして、故意に事実を曲げて訴えようとしているのなら、ここでやめると「やはりやましいものがあった」と解釈し、徹底的に追いつめてくるかもしれない。ここは逆に、学校当局の正式な認可を得た活動という方向にもって行かねば、まずいのではないか。そこで、学校当局に認可を求めようと思ったが、手続なども不明な点ばかりなので、まず留学生弁公室に相談した。留学生弁公室側の話では、まず留学生弁公室管理下の活動として、留学生弁公室の管理下にある勺園の敷地内で活動すれば、とりあえず問題はないだろうというアドバイスを得た。そこで活動場所は、第二体育館北側の芝生から、勺園1号楼の芝生へと移動することになったのである。
 11,12月の活動は、朝の稽古はなくなったとはいえ、北京の極寒の気温の中で継続された。雪の積もった芝生の上に絨毯を敷いて稽古したこともある。しかし、さすがに足がかじかんで、2時間も稽古することは出来ず、1時間で切り上げた。12月末、第一学期最後の稽古が終わった夜に、参加者全員を集めて食事会をした。参加者は、私を含め7名であった。普段の稽古では、2,3人くらいしか出てこないので、一堂に会する場をもうけたかったというのもあるが、実際の目的は別にあった。参加者に集まってもらい、今後は中国人主体の団体を形成し、学校当局の認可取得を目指すという方針を提案するのが主な目的であった。この方針を積極的に進めようと、他の参加者を呼び集めたりしたのは胡春華であったが、彼はその団体の会長にはなろうとしなかった。実は、北京大学の在校生ではなかったからである。そこで、曲昌智君が会長になることになり、来学期開始早々に、学校当局向けに申請をはじめることになった。

2001年

 冬休みが終わって、2月末から稽古を再開した。この学期の、最大のイベントは、地元の道場の有志を迎えての稽古であった。地元の道場の方でも、この時点で北京の活動にどこまで期待を抱いていたかは分からないが、とにかく見に来てくれるという。まだ、室内の稽古場を探すなど、まだ具体的に考えられもしない時点のことである。2日間一緒に稽古をし、厳しい環境の中でも、一生懸命稽古をやっているという成果を見てもらった。その時初めて、順調に発展させて、福岡の菅沼師範を招聘しようという話が出た。今振り返ると、全く時期尚早な話ではあるが、その時自分の頭の中では、必ず近い将来師範を呼べると、妙な確信をもっていた。
 しかし、活動そのものは思ったより順調にはいかなかった。地元の道場の人たちとの稽古後、かえってみんなの気がゆるんだ感があった。翌週の稽古では、初めて私以外の人が来ないという事態が発生した。しかも三回に一回は、誰も来ないという状態がしばらく続いた。これから季候もよくなり、野外でも気持ちよく稽古が出来る時期である。この時期に人が来ないとなると、将来はどうなることかと危ぶまれた。しかし、誰も来ない日であっても、必ず絨毯をもって芝生に出かけ、準備体操をしては部屋に引き上げた。
 6月になって、祝君という学生が私に電話をかけてきた。政法大学の学生とのことである。彼が初めての他校の学生の参加者である。彼は北京大学からバスに乗って1時間くらいの所にすんでいたので、朝稽古には出られなかったが、土日の午前中の稽古は毎回現れた。実は毎回遅刻せずにやってくるような参加者は今までいなかった。一二回、小雨が降って、誰も来ないだろうと思って、それでも傘をさして芝生に出てみると、彼が芝生の周辺でウロウロしている。「雨が降っているから中止かと思ったが、一応来てみた」とのことである。こちらも「せっかく来たのだから」と言って、雨の中を稽古した。雨で濡れた絨毯は、滑って危険であるというのはそのとき初めて知った。
 第二学期の終わりになっても、学校当局への団体申請は行われなかった。曲君の話では、発起人が10名必要で、そんなに人が集まらないというのである。しかし、発起人は必ずしも会員である必要はない。友達などに頼み込めば10人くらいは何とかなるだろうといったが、余り気乗りがしないようだった。たしかに学期後半の状態を見れば、とても申請など出来る状態ではなかった。学期末の食事会では、4名のみが参加した。残念なことに、祝君は来学期から留学で国外に行ってしまうと言う。実質的には3名になってしまう。今のように、数十人の会員を擁する協会しか見ていない人からすれば、会員が3名にまで減るというのは、壊滅状態だと思うだろう。たしかに少ないとは思ったが、それで終わりになるとは思わなかった。確実に初期段階で参加した学生は上手くなっていたし、平均レベルは上がっているという実感があった。それに全くゼロの状態から始めた活動である。また来学期から、ゼロから人を集めるつもりで頑張れば、何とかなると思ったし、平均レベルは去年より上がっているので、絶対に人も集まると思っていた。今から思えば無謀だが、絶対に潰れることはないという、妙な確信があった。
 夏休み、福岡に行って、菅沼師範にお会いし、北京の様子を報告した。その時の北京の活動は、必ずしも上向いているとは言えなかったので、師範にも「いずれ人が増えたら、先生もいらして下さい」というのが精一杯であった。それでも今思えば、大胆な申し出であったと思う。師範も、さして興味はない様子で、そのうち考えてみましょうというような反応だったように記憶している。

 9月の第一学期が始まると同時に、今までにはない規模でビラを張り始めた。毎朝三角地などの掲示板があるところに行ってビラを貼るのである。一日に多いときで3回、数カ所に貼り続けた。その成果もあって、参加者はやっと10名を超えた。先学期の終わり頃とは、うって変わって上り調子であった。これを機会に、何とか室内の稽古場を確保しようと、場所探しをはじめた。当初は、学校外にそこそこ安い地下室など、倉庫用の場所を借りようということで、色々と物件をあたった。海淀体育館にも行ってみたが、当時は柔道場もなく、板間の武術室でも、えらく高い使用料を請求され断念した。10月の国慶節になると、また参加者が減り、またもや私一人しかいないという現象が発生した。ただ、国慶節後にも堀江君など、数人の新入会員があり、人数は確実に増えていった。10月29日、曲君から電話があり、やっと団委(共産党青年団委員会)に「北京大学合気道協会」の申請をし、批准されたとのことであった。協会設立を計画して約一年。やっと学校当局の認可を得た合法団体になった。「北京大学合気道協会」の名前で宣伝をすると、正式な団体としての安心感があるのか、さらに入会者は増えた。この団委による認可は、活動発展の大きな転機になった。思えば、この認可申請も、いわれもない密告が契機になっているのであり、あの一件がなければ、協会を作ろうという動きも無かったし、私も自分が北京にいる間だけの活動で終わらせていたと思う。


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